スタイリッシュ・アジア

11月25日 「スタイリッシュ・アジア」 (パルテノン多摩小ホール)

愛情萬歳
愛情萬歳(Vive L'Amour)
1994年/台湾/中央電影公司/ブレノン・アッシユ配給/1時間58分
 
脚本・監督=ツァイ・ミンリャン
脚本=ヤン・ピーイン、ツアイ・イーチュン
撮影=リセオ・ペンロン
出演=ヤン・クイメイ、リー・カンション、チェン・チャオロン
 
[ストーリー]
 ロッカー式共同墓のセールスマン、シャオカン(L・カンション)はある日、さしっぱなしになった高級マンションの部屋の鍵を抜き去る。鍵の持ち主はメイ(Y・クイメイ)、部屋は不動産エージェントをしている彼女の仲介物件。でも彼女はそのことに気付かないで、夜の街でゆきずりに出会った男、アーロン(C・チャオロン)とその部屋で一夜を過ごしたりする。部屋は売れず、彼女は疲れた体を癒すように時々その部屋を訪れる。秘かにそこに住み始めるシャオカン。アーロンもまた、合鍵を使ってそこに出入りするようになって…。
 
[コメント]
 何だか切なくって、泣きたくなった。鋭いナイフで切りつけるように、この映画は痛々しくて残酷なのに、そのくせこの映画は、あったかい。例えば、自分の手首を切りつけるシャオカンの哀しみと、薄暗い部屋のなか、スイカでボーリングしたり、女装して腕立て伏せしたりするシャオカンの妙な可笑しさ。例えば、夜の遅くに冷蔵庫を開ける時の様な、淋しさとほんの少しの安らぎが同居している。美しい台詞や風景なんて出てこなくて、主人公はみんなじれったいくらいに不器用で、目を背けたくなるくらい孤独である。混沌や哀しみはすベて内包され、ポッカリ都会の落とし穴にはまったメイやシャオカンやアーロン。その不器用さや狐独を、僕らは密かに愛すだろう。男は眠っている男にキスをし、女は一人、公園を歩き、ベンチで泣きじゃくるラストシーンに溢れる、とめどない人恋しさ。こんな世の中、“愛”とか“友情”とか恥ずかしくってさ、なんて斜めに構えながら、実は密かに”愛情萬歳”と囁いてみるツァイ・ミンリャンの声が聞こえた。 (長)

エドワード・ヤンの恋愛時代
獨立時代(A CONFUCIAN CONFUSION)
1994年/台湾/アトム・フィルムズ/シネカノン配給/2時間7分
 
脚本・監督=エドワード・ヤン
撮影=チャン・チャン、リー・ロンユー、ホン・ウーショウ、チェン・ポーウェン
音楽=アントニオ・リー
出演=チェン・シァンチー、ニー・シューチュン、ワン・ウェイミン
 
[ストーリー]
 「クーリンチェ少年殺人事件」のエドワード・ヤン監督が、経済発展著しい台北の街を舞台にヤング・エクゼクティプの姿をコメディタッチで描く群像劇。親友モーリー(N・シューチュン)が経営するカルチャー・ビジネス会社で働くチチ(C・シアンチー)は、いつもモーリーに無理難題な対人折衝を押し付けられる。いかにも優等生のチチは誰にでも親身になって相談にのるが、その反動で恋人のミン(W・ウェイミン)とは喧嘩ばかり。そこに行き詰まっている人気劇作家パーティやモーリーと戦略的に婚約させられた財閥の御曹司アキンも絡んできて、各々の悩みや思惑が交錯する。
 
[コメント]
 表面上トレンディドラマを装うこの作品から、浮かび上がってくるものをすくいとることのできない自分が歯がゆいが、全体像が見えてこないぶん、尚のこと映画としてのスケールの大きさを感じざるを得ない。エドワード・ヤンの前作「クーリンチェ殺人事件」は、60年代の政情不安を背景に、抗争に巻き込まれていく少年たちの闇の中での魂のゆらぎを直視した正攻法のスタイルだった。本作ではそのスタイルが一転して、台北のヤングエクゼクティブたちの喧騒を軽妙なコメディタッチで描き、そこから都市論や儒教的な人生観がチラチラと顔をのぞかせる。複雑な人間模様から綿密に構築された映画的空間は、無限の広がりが感じられ、そのなかで提示される事象に映画的な意味付けを行なおうとする観客の試みは、実に幸福な映画的体験となる。前作と比べ直線的な表現ではないが、それ故に、奥行きの深さ、作家としての力量の壮大さが強く感じとれる作品である。今後、いかなるスタイルをとろうともエドワード・ヤンでしか構築し得ない小字宙が展開されるであろうし、そのなかで小さな自分をみつめ直すことができるのが、彼の作品を観る観客の特権である。 (淳)

欲望の翼
阿飛正傳(DAYS OF BEING WILD)
1990年/香港/撮傑有限公司/プレノン・アッシユ配給/1時間37分
 
脚本・監督=ウォン・カーウァイ
撮影=クリストファー・ドイル
音楽=ザピア・クガート、ロス・インディオス・タパハラス
出演=レスリー・チョン、カリーナ・ラウ、アンチイ・ラウ、マギー・チョン、ジャッキー・チョン、トニー・レオン
 
[ストーリー]
 ヨディ(L・チョン)は母を知らない。義母との確執を抱えながらも、自由奔放に生きている。売店の亮り子をしているスー(M・チョン)は毎日そこにやって来るヨディと恋におちるが、結婚を望まないヨディの元を彼女は去った。やがてヨディは踊り子のミミ(C・ラウ)と暮らすようになる。そしてミミに一目惚れをするヨディの親友サブ(J・チョン)。ヨディを忘れられないスーは雨の夜に彼の家を訪ねるが、ミミの存在を知り、家を飛び出る。街を彷徨するスーに帰りのタクシー代を渡す警官タイド(A・ラウ)。1960年、香港。うだるような暑さの中、生きることの苦手な5人の若者の夢や孤独や欲望が交錯する。
 
[コメント]
 スタイリッシュな映像、その物語法が独創的な「欲望の翼」には麻薬的な魅力がある。気怠いラテンナンバー、それに合わせて主人公達の踊るダンス、多く登場する時計、鏡、雨、気障な台詞、鳴る電話、語られる思い出、忘れられない思い出。全てがやるせなく、愛おしい。人と関わることを望みながらその思いを誰かにうまく伝えることのできないブキッチョな若者たち、濃厚な緑に彩られた密林から雲の彼方へ飛び立つことを願う彼ら。“一瞬が大切なのです。生きているうちで、その1分間は唯一無二の1分間なのです。過ぎてしまえば2度と戻ってこない”と言うウォン・カーウァイ監督。その言葉の切なさと美しさがこの映画の全てだと思う。ちなみに女優の大塚寧々氏がこの映画をお好きだそうで、映画のタイトルを「欲望のない翼」という風に間違って覚えていたというのだが、この間違ったタイトルがなかなかいい。ラスト、ヨディが言う“俺が死ぬ今日もいい天気になるかな”。本当は誰もが欲望など持たない真っ白な翼で飛び立ちたいと願っているのだ。 (長)

赤い薔薇白い薔薇
HONG MEIGUI BAI MEIGUI (RED ROSE WHITE ROSE)
1994年/香港/ゴールデン・フラーレ・フィルムズ/松竹富士配給/1時間50分
 
監督=スタンリー・クワン
原作=アイリーン・チャン
脚本=エドワード・ラム、リュウ・ハン
撮影=クリストファー・ドイル
音楽=シヤオチョン
出演=ジョアン・チェン、ヴェロニカ・イップ、ウインストン・チャオ
 
[ストーリー]
 1930年代の上海。ロンドン留学から帰国したチェンパオ(W・チャオ)は友人の家に部屋を借りるが、友人が出張にでかけた後、魅力的で開放的な友人の妻チャオルイ(J・チェン)と激しい恋に落ちてしまった。やがて彼女は夫に離婚を迫る手紙を出す。チェンパオは友人との仲が壊れ、社会的な不利益をこうむることを恐れて彼女を捨て、親の勧めにしたがって女学生イェンリー(V・イップ)と結婚する。清楚で貞淑で理想的と思われた妻との結婚生活はうまくいかない。しかも妻はひどい便秘がこうじて一日中トイレにこもってしまう始末。絶望したチェンパオは女遊びにうつつを抜かす。そんなある日、彼は偶然チャオルイと再会する。友人とは別れ再婚したという彼女の後ろ姿を見ながら、再会したときに泣くのは彼女のほうのはずだったと涙ながらに独白するチェンパオ。彼は放蕩から抜け出して「理想的な人間になる」と決意する。
 
[コメント]
 すべての男の人生には赤と白の薔薇(女)がいる。あらゆる女もまた情熱的な愛人にも貞淑な妻にもなりうるもの…。「ルージュ」で香港を舞台に30年代と現代とを交錯させつつ異色の幽霊譚を作り上げたクワン監督は、今度は30年代の上海を舞台に、男女の関係が社会的慣習・制度や彼らの置かれた環境にいかに影響されるかについて、悲劇と喜劇をミックスさせた独特のスタイルで描きだしてみせる。上海の爛熟したブルジョア社会を再現した映像は、贅沢で官能的な美しさに満ちている(撮影は「恋する惑星」のC・ドイル)。しかし、この監督は只者ではない。ちよっと皮肉な恋愛喜劇を装いつつ、男と女を見つめる視線は実に鋭利である。特筆すベきは、主人公の内面の虚ろさを、何度も現われる路面電車の場面で効果的に表現していることだろう。窓ガラスに映る人々(世間)の無言の威圧感、あるいは階級差についてのスケッチ、さながら燃え穀のように無機的な主人公の表情……。ガラス窓の冷たい感触の中に言いようのない物悲しさを漂わせつつインサートしていく。皮肉でありながら滑稽に傾きすぎす、耽美的でありながら批評性をはらませた、スタイリッシュな演出と話り口のなめらかさが見事だ。 (輝)