語り継がれる事件

11月23日 「語り継がれる事件」 (やまばとホール)

●Time Table●
11:00ー13:23
14:05ー16:07
16:25ー19:21
ミスティック・リバー
半落ち
ゴッドファーザー デジタル・リマスター版

ミスティック・リバー
MYSTIC RIVER
2003年/アメリカ/ワーナーブラザーズ配給/2時間18分
 
監督・製作・音楽=クリント・イーストウッド
脚本=ブライアン・ヘルゲランド
撮影=トム・スターン
出演=ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコン、ローレンス・フィッシュバーン、マーシャ・ゲイ・ハーデン
 
ミスティック・リバー
 
[ストーリー]
 3人の少年は、ひとりが誘拐事件に遭ったことから、次第に離れていくことになる。だが25年後、それぞれが愛する者をもつようになった3人は、悲惨な殺人事件を通して再会する。1人は娘を殺された父親として、1人は刑事として、そしてもう1人は容疑者として……。
 
[コメント]
 この映画には幸せな人間は登場しない。みな何かしらの傷を背負い、苦しんでいる者たちばかりだ。だが、三者三様の夫婦関係を始め、子供たちまで含めた全ての登場人物の立場や人間性に個人的に思い当たる部分があり、この映画のなかの誰にも投影出来ないのに、リアルな存在感を漂わせていて人ごととは言い切れないものがあった。
 娘を殺された父親の鬼気迫る激情をスクリーンに叩きつけるショーン・ペン、少年時代の悲惨な体験に今にも崩れ落ちそうな脆い心を演じるティム・ロビンス、内面に愛情の葛藤を隠し持つ怜悧な刑事の心情を見事に捉えるケヴィン・ベーコン。この3人に負けていないのがティム・ロビンスの妻セレステを演じるマーシャ・ゲイ・ハーデン。夫に対する不安や恐怖を必死に抑えることに必死にならなければならない、妻としての悲しみがにじみ出ていた。
 悲劇が悲劇を生む負の連鎖……ほんの些細な違いで自分に訪れていたかもしれない悲劇。「人生なんて不公平そのもの」という真実が目をそらしたくなるほどの冷徹さで描かれている。そのやりきれなさは映画を観終わった後しばらくの間私のなかにとどまり続けた。 (石カ)

半落ち
2003年/「半落ち」製作委員会/東映配給/2時間2分
 
監督・脚本=佐々部清
原作=横山秀夫
脚本=田部俊行
撮影=長沼六男
音楽=寺嶋民哉
出演=寺尾聡、原田美枝子、柴田恭平、鶴田真由、伊原剛志、西田俊行、樹木希林
 
半落ち
 
[ストーリー]
 「3日前、自宅で妻の首を絞めて殺しました」と、梶聡一郎(寺尾)が警察に自首してきた。多くの人々から尊敬されてきた梶が、なぜ殺人を犯したのか。自首してくるまでの2日間に何をしていたのか。志木(柴田)が取調べを担当するが、梶はその2日間についてはまったく口を開こうとしない。梶が何も言わないのは嘘がつけないからだ、と信じる志木は、独自に2日間の彼の行動を調査することに。果たしてその2日間の真実とは?
 
[コメント]
 権威、組織、保身。登場する各々が、そのなかで揺れ動き、葛藤し、絶望する。そんななかで、たったひとり、そのような心の揺れから遠くにあるのが、犯人である梶聡一郎である。皆の心の澱みのなかで、犯人の梶だけが、凛として存在しているように思える。「守るべきもの」の差が人間としての立場を逆転させてしまっているような、そんな気さえする。
 寺尾聡の寡黙のなかに人柄をにじませる佇まいが素晴らしい。愛する人が壊れていく姿を目の前にして、どういう行動を取るべきか。身につまされる問題だけに、寺尾演じる梶に感情移入しやすく物語にどんどん引き込まれてしまう。
 一人一人の心情が言葉であまり語られず、行間の多い映画であるが、その演出は映画を観る者に「どう考えますか?」と問いかけてくる。 (石カ)

ゴッド・ファーザー デジタル・リマスター版
The Godfather
1972年/アメリカ/パラマウントホームエンタテインメントジャパン配給/2時間56分
 
監督・脚本=フランシス・フォード・コッポラ
原作・脚本=マリオ・プーゾ
撮影=ゴードン・ウィリス
音楽=ニーノ・ロータ
出演=マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ダイアン・キートン、ジェームズ・カーン、ジョン・カザール、ロバート・デュバル
 
ゴッド・ファーザー
 
[ストーリー]
 マフィアのボス、ドン・コルレオーネ(M・ブランド)には3人の息子がいた。長男ソニー(J・カーン)は血の気が多く荒っぽい。次男フレッド(J・カザール)は腰抜け。温和な三男マイケル(A・パチーノ)は父親のお気に入りだが堅気の道を歩もうとしていた。しかし、父が敵対するファミリーに襲撃された時、マイケルは父の世界へ1歩足を踏み入れる。
 
[コメント]
 当初2時間6分に仕上げたコッポラに対してプロデューサーのロバート・エヴァンスが「俺は予告篇を観たいんじゃない。本編を作ってこい」と言ったのは有名な話だが、その無謀とも言えるプロデューサーの判断がなければ映画史に残る名作はこの世に存在しなかったし、コッポラのその後の映画人生も随分違ったものになっていただろう。後にコッポラがプロデューサーとしてやりたいことをやり過ぎて失敗を繰り返したのは、この一言の影響があったと言えなくもないからだ。
 公開当時、普段洋画など観ることのない母がこの作品をPTAで観賞しに行っていたことからも、いかに社会現象を引き起こしていたかが伺える。映画の社会への影響力というのは、この少し後、『ジョーズ』(75年、S・スピルバーグ監督)を境にして急速に衰えていったように思える。文化が多様化したためか、映画そのものがもつ力が失われたためか分からないが、もう映画が社会的な影響力をもつことはありえないように感じられる。 (淳)