ジャパニーズ・ヌーベルバーグを振り返る PART2

11月22日 「ジャパニーズ・ヌーベルバーグを振り返る PART2」 (やまばとホール)

●Time Table●
12:30−12:40
12:40−14:43
15:00−16:43
17:00−18:00



18:20−19:56
オープニング
にっぽん昆虫記
心中天網島
トーク「ジャパニーズ・ヌーベルバーグを振り返る」
 ゲスト:篠田正浩監督、岩下志麻氏、
 聞き手:常石史子氏(東京国立近代美術館フィルムセンター研究員)
青春残酷物語

にっぽん昆虫記
1963年/日活製作・配給/2時間3分
 
監督=今村昌平
脚本=長谷部慶治
撮影=姫田真左久
音楽=黛敏郎
美術=中村公彦
出演=左幸子、北村和夫、佐々木すみ江、吉村実子、露口茂、長門裕之、春川ますみ
 
[ストーリー]
 松木とめ(左)は大正7年、東北の農家に生まれた。そして23歳の時、製糸工場で働くようになり、地主の本田家に無理やり足入れ婚をさせられる。そこで生まれたのが娘の信子であった。とめは信子を置いて家を出て、労働組合の活動家、新興宗教の信者を経て、ついにはコールガール組織の元締めとなる。娘(吉村)を呼び寄せるが、逮捕されて刑務所から戻ってみたら、組織もパトロンもすべて娘の手に落ちていた……。
 
[コメント]
 私が初めてこの映画を観たのは、池袋は文芸坐のオールナイト興行でのこと。当夜の文芸坐は満員御礼の異様な熱気がうねり、表題作に『豚と軍艦』(61年)『赤い殺意』(64年)『神々の深き欲望』(68年)などを加えた綺羅星の如き今村監督特集に食らいつくように観入ったものだ。だが、それ以上に強烈な印象を残したのが、この作品の女性像である。戦中戦後をなりふりかまわず生き抜く女のエネルギーの凄まじさ! そして猥雑で下品でふてぶてしいその姿を、昆虫観察にも似た冷徹なまなざしで見つめ抜いた今村監督の底知れぬパワーにも圧倒された。嫌悪感と同時に湧き上がってきたのは、そうした女性たちだけが持てる圧倒的な存在感ゆえの魅惑であり、言葉にならない物悲しさでもあった。まだ大学に入ったばかりのうぶで頭でっかちな女の子にとって、衝撃的な出会いだったことは言うまでもない。今となっては、当夜どうやって両親を説得して出掛けられたのかすっかり忘れてしまったが、以後、毎週のように文芸坐の終夜興行に席を占めることになった。まさしく、この夜の体験は私の人生を変えてしまったのである。 (成瀬輝美)

心中天網島
1969年/表現社、ATG製作・配給/1時間43分
 
監督・脚色=篠田正浩
原作=近松門左衛門
脚色=富岡多恵子、武満徹
撮影=成島東一郎
音楽=武満徹
美術=粟津潔
出演=中村吉右衛門、岩下志麻、滝田裕介、小松方正、加藤嘉、藤原釜足、浜村純
 
[ストーリー]
 紙屋冶兵衛(中村)には女房のおさん(岩下)と2人の子どもがありながら、曽根崎新地紀伊国屋のお抱えの遊女小春(岩下二役)と深く馴染んでいた。小春につきまとう成金の太兵衛(小松)は金にあかして小春を身請けしようとする。心中するしか道のなくなった冶兵衛と小春は、夜明け前に駆け落ちをして大坂から京へと上って行く。網島の大長寺。草むらで抱き合ったふたりは、「一緒に居続けること=心中」の決意を固める。
 
[コメント]
 冒頭、篠田正浩監督が脚本家の富岡多恵子氏に電話をかけるところから始まる。ラストシーンに至る墓地のロケ地についての相談から一転して原作である浄瑠璃の最後、冶兵衛が小春の喉を突く人形場面が置かれ、そこから一気に本編へと導入して行く。この意表を突くファーストシーンから、以後のストーリー展開はあたかも篠田監督が舞台の天井から全体を俯瞰して人形を操るが如く進行する。黒子が前面に登場してふたりの運命を導いていくのをはじめ、現代美術のような遊郭のセット、武満徹の現代音楽との融合と、近松門左衛門の原作を大胆かつ自由闊達な解釈(アイディア)に基づいての映画化は、この世界に造詣が深く独自の美意識を持った篠田監督でしかなし得ない。この映画を銀座並木座で観てから20年以上経つが、草むらでふたりが抱き合うシーンは今でも鮮明に瞼に焼き付いている。モノクロ画面でヌードシーンがあるわけでもないのに、これまで味わったことのない背中がぞくぞくするようなエロティシズムに衝撃と興奮を覚えたのは昨日のことのようだ。この作品が作られてから30年以上が経つが、伝統的な原作物にここまで大胆な作品が他に現われてきていないことからも、日本映画史に残る非常に重要な作品であるといえる。 (淳)

青春残酷物語
1960年/松竹製作・配給/1時間36分
 
監督・脚本=大島渚
撮影=川又昂
音楽=真鍋理一郎
美術=宇野耕司
出演=桑野みゆき、川津祐介、久我美子、渡辺文雄、佐藤慶、浜村純、佐野朝夫
 
[ストーリー]
 松竹ヌーベル・バーグの騎手として鮮烈に登場した大島渚監督のデビュー2作目。少しグレた女子高校生マコ(桑野)は、面白半分で中年紳士の車に乗せてもらい、ラブホテルに連れ込まれそうになる。そこへ通りかかった大学生・清(川津)は、彼女を助けたうえに、紳士から金を巻き上げる。そのお金に味をしめた二人は、つつもたせをするようになり、破滅への道を突き進む……。
 
[コメント]
 松竹ヌーベル・バーグの作品(特に大島監督作品)を2000年という今、見直すとその政治意識の高さに感慨深い思いを抱く。この作品は1960年、つまり「60年安保」という政治の季節に製作された。その当時の学生や知識人にとって、当時の政治状況は抜き差しならぬ自己の問題だった。「おれたち自身を道具や売り物にして生きていくしかないんだ」そうつぶやく清の姿は、当時の敗北感に苛まれていた若者の心情をみごとに代弁していたに違いない。そこには「映画は感動だ! ロマンだ! エンターテイメントだ!」なんて甘言はこっぱみじんふっとんでしまう。そんな作品群を80年代頭に学生だった私は、今はなき池袋文芸坐のオールナイトで観て、ただただ圧倒され「この人にとって救いとはなんなんだろう?」という思いを激しく抱き、彼の多くのファンと同様、その言動に注視してきた。その間、彼は言論人として闘っていた。映画を取り巻く状況が彼を必要としていないかのように推移しているようだった……。1999年、彼は16年ぶりに新作を撮る。それは一見、ロマンに満ちた映像のように立たたずんでいた。しかし、それは「映画」と「政治」があまりにかい離した時代状況を反映させ、そして世紀末に対するメッセージがある。ただ、昔のようなアジテーションはなく、老獪さが漂う映像美で。彼の闘いはまだまだ続くと信じたい。 (セ)